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■宮城野
作/矢代静一  演出/日下部佐理

あらすじ・・・・・・・・・・・・・・
舞台は天保八年の秋、江戸の岡場所。
さむざむとした座敷で女郎の宮城野となじみ客のニセ絵師・矢太郎の予断の許さぬ会話が続く。矢太郎は師匠の写楽を殺めたらしく、それを察している宮城野とのやりとりは、嘘とまことが入り混じり、二転三転してゆく。

写楽そしてその孫娘である、おかよに対する矢太郎の想いと葛藤、その矢太郎に恋した宮城野の儚く移ろう心根。

鳴ってる、鳴ってるチンチンチン。透きとおった音でチンチンチン…。

やがて彼女が付けた決着は…。

宮城野/福島 啓子  矢太郎/大西 衛一
兵庫県西宮市出身
甲南大学演劇部に所属。学業そっちのけで演劇に打ち込む。
卒業後料理教室を開設。子育てが一段落し、MCオーディションに合格。
ブライダル・コンサート、パーティー等のMCとして活動。「劇団神戸」に朗読教室、演技教室を経て入団。「マクベス」「パパ・アイラブユー」「煙が目にしみる」「源氏マイラブ」「オウムとにわとり」「八人の女」等に出演。
2010年夏「劇団神戸」退団。現在フリーとして様々な企画に参加している。
2011年5月 A-1企画 「宮城野」に出演。意欲を燃やしている。
1960年劇団四紀会入団。出演作品100本をこえる。
2008年「キネマ・らぷそでぃ」にゲスト出演して東日本43ヶ所を巡演。関西を中心に活動。
代表作:老舎/作「ろんしゅいごう」小田和生/作「大正七年の長い夏」熊井宏之/作「地平線の五人兄弟」かたおかしろう/作「天満のとらやん」フェンゼル/作「あの町は遠い日」内田昌夫/作「ああ八月の陽の如く」L・ローズ/作「十二人怒れる男」別役実/作「カンガルー」M・エンデ/作「モモと灰色の紳士たち」車木容子/作「五十年目の戦場・神戸」井上ひさし/作「父と暮せば」など。
演出/日下部佐理
「宮城野」という女の場合-私の演出覚書から
 果たして、宮城野は聖女なのか。苦界に身を沈めながら、決してそれに染まらぬ無垢性を備えた。娼婦でも聖女でもあったマグダラのマリア。そんな聖書的な、いや、もっとありていに言えば、現実味のない理想化されたヒロインに僕は興味がない。宮城野の極めて特異な生きざまや人生を如何に色つき、匂いつきに表現するか。そう、宮城野のような女はいる、私たちの身の回りに。にもかかわらず、濁った眼には宮城野が見えない。一見愚かとしか思えない宮城野のような女を騙して捨てたことを忘れている。
例えば、ありふれた女を強烈な体験が特異な存在へと聖別する。ヒロシマ、空襲、アウシュビッツ、ハンセン氏病、いや、日航ジャンボ機墜落事故、阪神淡路大震災、そして、福知山線脱線事故。突然黒々と舞い降りてくる災厄、これら極めて重い体験を抱きかかえて生きざるを得ない人々がいる。自分の隣でさっきまでにぎやかに笑ったり、話したりしていた人間が次の瞬間には小さな焼け焦げになっている。剥奪された「人間」というものの尊厳=特権。すみやか、かつ、滑らかな「非」人間への移行、それがたった今まで人間であったことを信じがたいほどの。
これはいったい何なのか! むしろこの焼け焦げこそ、かつて人間と呼ばれたものの本当の姿ではないのか。なぜ、あの人が死んで、私は死ななかったのか、むしろ私が死ぬべきだったのに。今ここにこうしてある「私」とは人間の皮を着た「焼け焦げ」に過ぎない。いや、私は体験を特権化しようとしているのではない。それなら、またも体験で生じた聖痕(スティグマ)が聖女を作ってしまう。長い人生においては巨大な災厄に出くわさない方がむしろ僥倖だ。ただ、体験をした人としなかった人、あるいは体験の以前と以後では、全く世界が違うと言っていいほどに世界は変容する。もはや、彼岸への扉は開きっぱなしで、腐臭を帯びた強風がガンガン吹き込んでくる。言い換えると、私は「私」という輪郭を失って、あちらの世界に無防備に開かれてしまっている、丸裸なのである。ここで、キリスト教内部に鞭打ち行者が存在するように、感覚器の低レベルから高次の宗教的な法悦に至る、あらゆる段階での痛みと快楽の取り違えが起こる。なぜか、その女にだけ次々に不幸が押し寄せてくるのだ、それを本人が好き好んで引き寄せるかのように、神(これは神でなくて、労働者や弱い立場の人々でもいいし、人生そのものへの愛と考えていいが)への愛を試そうとするかのように、これでもかこれでもかと。いやいや、そんな倒錯を引き起こすほどに人生は辛い。無論、深々とした存在の不安に耐えられない私たちは、自分は罪深いゆえにこんな目に合うのだ、と因果論的な理屈を考えて安心を図る。(これをニーチェは奴隷の哲学と喝破し、これら虚無と戦うためには超人になるしかないと考えた。)ここまで書いて来て、ふと、『嫌われ松子の一生』という小説(映画)を思い出した。そういえば、「嫌われ松子」という女の場合はなぜかオロカワイイのだ。そして、誰にも松子の一生を不幸と呼ぶ権利はない。ひょっとすると、からだがチーンと鎮もる『宮城野』というこの女の生きざまも、悲惨という名のメルヘンなのかもしれない。
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